異文化読書探訪

『スラム』が描く都市化の影:世界各地の「ありえない居住空間」から異文化を知る

Tags: スラム, 都市貧困, 異文化理解, 社会問題, ノンフィクション

異文化理解というと、遠い国の伝統文化や風習に思いを馳せることが多いかもしれません。しかし、同じ都市の中にありながら、異なる論理と価値観で営まれる「見えない」生活空間もまた、私たちにとって重要な異文化であり、理解を深めるべき対象です。今回は、マイク・デイヴィス著『スラム:世界都市のありえない居住空間』(太田直子訳、明石書店)を取り上げ、世界の都市が抱える深刻な居住問題から異文化を読み解いていきます。

作品概要と舞台

本書は、ジャーナリストであり都市論研究者であるマイク・デイヴィスが2004年に発表したノンフィクションです。原題は"Planet of Slums"であり、そのタイトルが示す通り、地球上の都市部におけるスラムの驚異的な拡大とその実態を、膨大なデータと具体的な事例に基づいて分析した力作です。

本書の舞台は、特定の国や地域に限定されません。ラテンアメリカ、アフリカ、アジアなど、世界中の主要都市に存在するスラムが対象となります。リマの「プエブロス・ホベネス」(若い町)、ナイロビのキベラ、ムンバイのダラヴィなど、様々な地域で異なる様相を見せるスラムを取り上げ、その生成メカニズム、内部構造、そしてそこに暮らす人々の生活と直面する困難を描き出しています。スラムという極限的な居住空間に焦点を当てることで、グローバル化、都市化、経済格差といった現代世界が抱える構造的な問題が浮き彫りにされます。

異文化描写の深掘り:都市に生まれるもう一つの世界

デイヴィスは本書で、スラムが単なる劣悪な居住地域ではなく、都市の経済や社会構造と深く結びついた、独自の生態系を持つ空間であることを描き出します。

スラムの形成と多様性

スラムの形成は、急速な都市化と経済機会の偏り、そして多くの場合、不適切な土地政策や貧困対策の失敗によって引き起こされます。本書は、これらの構造的な要因を丁寧に説明します。しかし、重要なのは、それぞれのスラムが画一的な存在ではないということです。地域によって、あるいはスラムの内部においても、その歴史的背景、住民の出自(都市への移住者、特定の民族集団、難民など)、経済活動(非公式経済の多様な形態)、そして社会組織や自助努力の様相は大きく異なります。例えば、ラテンアメリカの自己建設によるバリオやファベーラ、アフリカの賃貸スラム、アジアの土地占拠型スラムなど、その形成過程や法的地位の違いが、居住者の生活や社会構造に影響を与えている様子が描かれます。

生活様式と価値観

スラムでの生活は、水、衛生、電気といった基本的なインフラが不足し、犯罪や暴力のリスクが高いといった困難に満ちています。しかし、本書は同時に、こうした環境下で人々がどのように生存戦略を築き、コミュニティを形成し、助け合いながら生きているかにも光を当てます。非公式経済における商取引、互助組織の活動、宗教や家族の絆の重要性などが描かれ、そこには都市の主流社会とは異なる、しかし力強い生活の論理や価値観が存在することが示唆されます。これは、私たちが「貧困」という言葉から画一的に想像しがちなイメージを刷新し、多様な異文化としてのスラムのリアルを理解する上で非常に重要です。

社会問題と抵抗

本書は、スラム住民が直面する社会問題(強制立ち退き、警察の腐敗、政治的排除など)を厳しく批判的に描写します。同時に、土地権利の獲得を求める運動、居住環境改善のための住民組織の活動といった、スラム住民による抵抗や自己組織化の試みにも言及します。これは、スラムを一方的な犠牲者の場所としてではなく、困難な状況下でも人々が主体的に行動し、自らの権利や生活を守ろうとする動的な空間として捉える視点を提供します。

作品の魅力と意義:都市と貧困を読み解く視点

『スラム』の最大の魅力は、その圧倒的な情報量と、都市の貧困という問題をグローバルな視点から捉え、構造的に分析する筆者の手腕にあります。データと理論だけでなく、各地の具体的な事例や歴史的経緯が豊富に盛り込まれているため、単なる学術書にとどまらない、リアリティのある読書体験が得られます。

この作品を読むことは、異文化理解の観点から非常に意義深いと言えます。

まず、「都市」という空間内に存在する異文化という視点を提供します。先進国・途上国を問わず、都市は多様な人々が暮らす場所ですが、その内部には経済的・社会的な壁によって隔てられた異なる生活世界が存在します。スラムは、まさに都市の中の「不可視の異文化圏」であり、そこでの生活様式や価値観を知ることは、都市という空間の複雑さと多様性を理解する上で不可欠です。

次に、グローバルな課題としての貧困と格差に対する理解を深めます。本書は、スラムの拡大が単なる局地的な問題ではなく、新自由主義的グローバル化、構造調整政策、国家の開発戦略など、より大きな世界経済や政治の動きと密接に関連していることを示します。世界各地のスラムの事例を通じて、貧困や格差が異なる社会構造や歴史的背景の中でどのように現れ、人々の生活にどのような影響を与えているかを比較横断的に学ぶことができます。

さらに、困難な環境下での人々の生存力と社会組織についての理解を深めます。主流社会の論理が通用しにくい環境で、人々がどのように生き延び、互いに助け合い、時には権力に対して抵抗するのかを知ることは、人間の営みの多様性と可能性を考える上で示唆に富みます。

読者への推奨:グローバルな視点と個別事例を結ぶ

特に、国際関係学を専攻する学生や、開発、貧困、都市問題、社会学、あるいは人権といったテーマに関心を持つ読者にとって、本書は必読の一冊と言えるでしょう。

グローバルな都市化の趨勢とスラム拡大という現象を、世界各地の具体的な事例と結びつけて理解することができます。また、開発援助や都市政策がスラムの現実に与える影響について考える上でも、重要な視点を提供してくれます。データと理論に基づいた分析は、アカデミックな探求の出発点となり得ますし、そこに描かれる人々の生活のリアリティは、共感的な理解を深める助けとなります。

一般の知的好奇心を持つ読者にとっても、本書は、メディアで伝えられる断片的な「スラム」のイメージを超え、その複雑な現実と、そこに暮らす人々の多様な営みを知る貴重な機会となります。世界の都市を見る目が変わり、私たちが暮らす社会や経済のあり方について深く考えさせられることになるでしょう。

結論:都市の影を知ることから始まる異文化探訪

マイク・デイヴィス著『スラム』は、世界の都市が抱える貧困と居住空間という、看過されがちな異文化空間へと私たちを誘います。本書を通じて、スラムという過酷な環境下で生きる人々の生活様式、価値観、そして社会の仕組みを知ることは、グローバルな都市化が進む現代世界を理解する上で不可欠です。

この一冊から、私たちは単なる都市の統計データや問題点を知るだけでなく、そこに息づく人々の多様な生と、困難な状況下でも失われない人間の営みの力強さに触れることができるでしょう。世界各地の都市の「影」を知ることは、私たち自身の社会や世界に対する理解を深める、新たな異文化探訪の始まりとなるはずです。